東北は胸を張って豊かな知恵の文化を基盤にした新しい国を作りましょう。
新しい東北は世界の希望になるでしょう、立ち上がる力があるのは既に歴史が証明しています。
一緒に!東北!
「マイ・ペース」オフィシャルブログ、1974年「東京」のヒットから。再び活動を始めた、森田みつぎ、伊藤進、根次男、サポートメンバーhiroko、の活動とニュース
東北は胸を張って豊かな知恵の文化を基盤にした新しい国を作りましょう。
新しい東北は世界の希望になるでしょう、立ち上がる力があるのは既に歴史が証明しています。
一緒に!東北!
秋田県南秋田郡飯田川町、昭和町、(現在は潟上市に合併)学校組合立「羽城中学校」3年1組(伊藤進、根次男、佐藤勝彦、菅原省一、森田貢、)高校時代 フォークソングの洗礼を受ける。その頃(1970年)秋田のアマチュア音楽シーンの中心にいたのが「山平和彦」中学の先輩でもあり「あきたおんがくくら ぶ」の活動に参加し始める。(リップス)の名前で、オリジナルを含め高石知也アリスなどの曲を、コーラスアレンジをして楽しんでいた。山平氏のバックバン ドを…という話になりメンバーも3人(伊藤、根、森田)になり、「マイペース」結成。
高校卒業、公務員試験を受け地元の大学2部に行きながら仕事をしていた森田が。国立高専の伊藤と病気で一年留年した根を待って、1973年秋田を出て山平和彦のバックバンドとして東海地方に向かう。
名古屋に着きすぐに、とある画家(今や超有名)のお宅に居候を始めるが環境のすさまじさに家探しを始める。岐阜市に素敵なマンションを見つけ移動、レンゲの花に囲まれた白いマンションで共同生活が始まる。
以下中日新聞原稿より「1973年東海ラジオの深夜番組(ミッドナイト東海)のディスクジョッキーを始めていた山平和彦(秋田出身)の元へ秋田時代から バックバンドをしていたマイペースが岐阜市に移り住んだ。と言うのが真実なのだが、本当はこんな説明をしてもあまり意味のない事なのだと思う、「マイペー ス」と言えばそれはそのままヒット曲「東京」を意味する、95%そうなのだ。べつに自嘲している訳ではない、それほど楽曲そのものにパワーがあったからな のだと解釈し ている、そして「東京」 ヘ名古屋だからこそ生まれた曲なのだから….。
合宿生活だった。メンバー、マネージメントをする銀次身の回りの世話役を買って出てくれた八重美ちゃん(皆「ばぁや!」と呼んでいた….失礼な!)手打ち のコンサートに明け暮れ、夜毎の盛り上がりは終わりを知らなかった、練習はいつも突然始まった、体も心も活力に溢れていた、皆が毎日熱かった。」
秋田県潟上市の羽城中学校の同級生である、森田貢、伊藤進、根次男らが結成。
1974年に3人組「マイペース」として、10月25日にシングル『東京』でメジャーデビュー。ロングセラーとなる。[1]。
1975年、シングル曲「東京」を含むアルバム『とうきょう』を発表。
1976年、シングル曲「望郷の街」発表。
1977年、シングル曲「夕日の町」発表。アルバム『MY SPACE』発表。
1978年、シングル曲「乾杯」発表。根次男がグループを抜け、活動休止状態になる。
2010年、「やり残したことがある」と活動を再開。
2011年4月12日、『NHK歌謡コンサート』(NHK総合)に出演し、『東京』を披露する。
代表曲「東京」(森田貢 作詞・作曲、JASRAC作品コード055-6109-4)は、BEGIN、敏いとうとハッピー&ブルー、丸山みゆきなど、多くのアーティストによってカバーされている。