マイ・ペースな奴ら

「マイ・ペース」オフィシャルブログ、1974年「東京」のヒットから。再び活動を始めた、森田みつぎ、伊藤進、根次男、サポートメンバーhiroko、の活動とニュース



山に入ると”やる気”が出て来る。いきなり何の脈略も、きっかけも、予感も、意気込みも無く”よっし!”と、とりあえず気合いが入る。漁師が海に向かう時の気合いでも、山菜取りの興奮でも無い。私は登山をする訳ではない、達成感や充実感を求めての”やる気”でもない。

私が生まれたのは秋田平野の北側から海に突き出した「男鹿半島」の付け根に在る小さな町だ。 海までは、八郎潟(干拓されて今は無いが、残存湖が僅かに残る)を迂回しても7~8kmだが、子供の頃は常に意識は山の方を向いていたようだ。

生家の近くの森からどんどん東に入って行けば、奥羽山地に深く入り込み、田沢湖、八甲田、安比高原、岩手山、.... 勿論そんなふうにして行った事は無いが、イメージはあった。 小学生の頃から時々一人で森に入って遊ぶ様になった、最初はほんの少しだけの冒険(山は恐い) 中学、高校、その後も生家に帰る度に時々、自分の中では儀式の様に必要な手続きの様に、山に入った。

山はいつも恐かった、町の暮らしとは違う神経を澄ましていなければ、たとえ知っている道でもなかなか奥へは進めなかった....。

時々はわざと迷ってみたり、谷へ降りたり深い林に入り込んだり。 そうしているうちに漠然と肩を重くさせていた迷いや不安、頭の上にかかる霞がはっきりと形をとって見えてくる。時には尾根に立ち止まり、時には大きな木の下に座り込み、又時には山道の途中に立ち止まったまま ”よっし!”.... 唐突に自分の迷いを断ち切った瞬間、Uターンをして山を降りる。歩いてきた道が同じ道とは思えない程明るく、輝いて見える。 町へ出る私の背中を、山の気が激しい瀬の流れの様に私を押し出す。 勇気の塊となって私は山を出る....。

 

続く (別ページに掲載しています。今回はその1までです)

 


記憶の中で初めて曲を作ったのは高校1年の冬だったと思う、曲を作ったというよりは


単純なコードに乗せてディランの真似事の様なメロディーで、学生生活を綴った歌だったと思う、もちろん何一つ形として残ってはいないし覚えてもいない。後日母が言っていたのは「何だか面白い事を歌っているなぁ」と思ったと言っていた。


高校2年の時初めて形に残った歌を作った、友達の詩に曲を付けたもので「想い出に思うもの」というタイトルで幼い頃の思い出を綴った詩にちょっと抒情的な曲を付けた。


自分では一度もちゃんと発表していないが…。(浅野君)という金沢で音楽活動をしていた小・中学同窓の友人の「俺、ずっと歌ってた!」という衝撃的な告白を聞いたのは20年ほど前だ。自分はすっかり忘れていても歌が浅野君を通して生き続けていたというカンドー的な話なのだ!!


 さて「南へ」。バンド活動が楽しくて学生生活もそれなりに充実していたほんの短い季節…そんな頃の歌だったと思う。今の3人に同級生の佐藤勝彦君も一緒に活動していて、勝彦の作る曲がいちいち正統派フォークソングの良い歌で(かなわんなー)と内心思っていた、自分はどちらかと言えばエルトンジョン風の斬新な和音の進行と洋風なメロディーに憧れていたので、思い切ってアイデアを曲にしてみたら結構ノリノリで、ちょっとNHK風で健康的な歌詞もほとんど同時に出来上がった。しっかり形になった初めての純オリジナルの楽曲の完成、実家の応接間に集まり練習しているのを聴いた父に「いい曲だな」と言われて嬉しかった。

外からのUPが多く、UP待ちの記事がWord上に溜まって来ました、少し放出します。南への600字ほどと前に書いていたおはなしを明日。
それと3月7日、東京タワーコンサート、3MP決定、前後にライブもやりたいなーっと!

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